トップページ > 神社について > 御祭神・御由緒

御祭神

武甕槌命(たけみかづちのみこと)

Memo

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が御子になる迦具土神を斬り給うた時、その血になりました神です。 天孫降臨に先だって天照大御神(あまてらすおおみかみ)の勅命を受け、経津主神と共に国譲りの大業を成就しました。 これからの御神徳から開運・安産・勝負の神として称えられ、また、方位除けの神として崇敬されています。


御由緒

昔、篠生(信夫)が湖沼であった時、わずかに水上に出ていた鹿島山上に蝦夷地経営のため、常陸国鹿島神宮を分祀勧請しました。
式内社・鹿嶋神社の論社の一つでもあります。
中世には、牧野紀伊守の住む小倉館(鹿嶋館)があり小倉鹿島神社とも呼ばれていました。

Memo

鎮座等については不明ですが、その昔、篠生(信夫)の郷がまだ湖沼だった時、僅かに水土に出ていた鹿島山丘上に常陸国鹿島神宮より蝦夷地経営のため、分祇勤請したと伝えられています。桓武天皇延暦元年凶賊を征伐する事を祈り、神験あるため勲五等及び本国の封に戸を授かりました。延喜式制定に当たり本社もその例に入ります。

後鳥羽天皇建久七年(一一九六)に暴風雨のため本殿が大破し再建され、後醍醐天皇の皇子義良親王の霊山入りに際し、当社に参詣し「延喜式鹿嶋神社」の石碑を建立奉納されました。その後、伊達家の崇敬篤く、天正七年(一五七九)太刀一口を奉献されました。また、光格天皇天明三年(一七八三)には御筆の額「鹿嶋神社」を賜り、文化四年には拝殿を改築し、文政七年(一八二四)京都吉田家より御鏡御幣を奉納され、同年現在の本殿を再建しました。その後、明治初年には雨覆を設け、昭和四十年屋根替・改修工事を行い、鎮座一千百年を記念し平成十三年九月には拝殿・幣殿を改築し、歴史の重みを感じさせる荘厳な社殿となりました。当社の位置は、古代の小倉郷の小さな丘上にあって、駅路に沿っており、中世には伊達家の家巨(十四代稙宗の重巨)の牧野家(後、社家丹治の祖)の住居する小倉館があり、別名「小倉鹿島神社」とも云われています。